「恩讐の彼方に」(菊池寛)

美談は美談として素直に受け止めましょう

「恩讐の彼方に」(菊池寛)
(「藤十郎の恋・恩讐の彼方に」)
 新潮文庫

主殺しを犯して
脱藩した市九郎は、
強請や強盗など罪を重ねる。
しかし自分の罪過を思い知り、
仏門へ帰依した市九郎は、
天下の難所に
隧道を通すことを決意する。
二十年後、
主人の遺子・実之助が、ついに
市九郎の行方を捜し出す…。

私が小学生の頃、放課後図書室に
入り浸っていた頃に出会った作品で、
四十年のつきあいになります。
あまりに美しいお話なので、
図書館で何度も何度も
読み返した記憶があります。
もちろん今でも大好きな作品です。

本作の結末はご存じの通りです。
市九郎を探し出してから、
実之助も一年半の期間にわたって
事業に加わります。
ある日の夜、他の石工が退いてからも
作業を続けていた二人は、
ついに隧道貫通にこぎ着け、
めでたしめでたしとなるのです。

ただし、大人になってから
本作品を読み返すと、
「実之助はこのあと
どうしたのだろう」と、
どうしても考えてしまいます。
一家再興の願いは
実之助本人だけでなく、
親戚一同一族郎等の
期待がかかっているはずです。
「家」の繋がりは、
現代では考えられないほど
大きく重いはずです。
だからこそ、実之助は
十年もの長きにわたって
市九郎探索を続けてきたのです。
そうしたものを振り切って
納得できるものを、
実之助はその一年半の共同作業で
得たのでしょうか。

仇討ち物といわれる時代小説を
いくつか読むと、
江戸時代の「仇討ち」が
制度化していた理由がよくわかります。
全く整備されていない警察機構の
補完システムとして
機能していたのです。
肉親を不条理に殺されても
解決する仕組みが
社会に備わっていなかったのです。
だから「自分で犯人を捜して
処罰する分には罪に問わない」と
するしかなかったのでしょう。

また、武士にとっては
体面上の問題もあり、
肉親が殺された場合、
泣き寝入りはできなかったのでしょう。
実之助の場合も同様で、
父が家臣に殺されたかどで
お家取り潰しの憂き目に
遭ってしまった以上、
敵を討たなければ
家名再興は果たせないのです。

ある意味、ここが
「純文学」と「大衆文学」の
境界なのかも知れません。
一年半の共同作業を経た後、
実之助が市九郎を殺害し、
その後も苦悩を背負って
生きたような筋書きか、
あるいは市九郎を殺さず、自ら
「仇討ちを果たせなかった能なし」として
苦渋の人生を歩んだような
物語であれば、
純文学たり得るのでしょう。
しかし、お涙ちょうだいで完結する以上、
本作品はやはり
「大衆文学」と言わざるを得ません。

まあ、
あまり難しいことは考えますまい。
美談は美談として素直に受け止め、
しっかり涙を流すのが、
本作品の正しい読み方なのでしょう。

(2020.4.23)

kobitrikiによるPixabayからの画像

【青空文庫】
「恩讐の彼方に」(菊池寛)

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